「死にたい」 それは 誰もが一度はかかる 熱病のようなものだと思う。

私は過去、あらゆる熱病に冒された。


例えば

親に酷く怒られたとき

「私にはきっと 本当のパパとママがいて いつか私を迎えにきてくれるんだわ」

などという熱病。

誰が見ても父親そっくりだった私にとって 本当のパパは目の前のオヤジだったのだが。


例えば

赤いシリーズの 百恵ちゃんを見た時

「私もきっと いつか白血病で倒れるんだわ。だって私も百恵ちゃんと同じAB型だもん」

などという熱病。

幸か不幸か私はAB型だったが RHはプラスだったので いたって一般的な子供だったが。


例えば

スポーツ番組等で活躍する世界的な選手を見た時

「私も実は 隠れた才能があるんだけど 発揮する場がないだけなのよ」

などという熱病。

やる気も才能もほとんどないと確信したのは成人してからだったか。


それと同じライン上に

「私なんて存在する意味がない」 「行きてる価値なんてない」 「私さえいなければ」

そんな風に 死を考える瞬間というのは 確かに存在した。

ほんのちょっとのつまづきで。 ほんのちょっとのきっかけで。

とことん落ち込み 死の魅力に取り付かれる事は 確かにあろう。


しかし それもほんの一瞬の熱病がなせる業なのだ。


たまたま今、世の中ではいじめ問題や責任問題等で また予告文などが世間を騒がせ

熱病に浮かれたココロに ほんのちょっと後押しをするような風が吹いているが

その風もやり過ごしてしまえば 何の事はない心の迷いだったということがわかるはずだ。




私自身、自分の存在価値を見出すことができず

コンプレックスのかたまりとなり さらにそれを誰にも相談できなかった時期があった。

1人になると 何も考える事ができなくなった。


しかし それを乗り越える事ができたのは 2つのファクターである。


1つは 好きなタレントがいたこと。アイドルではなかったが。

もし自分が死んでしまったら そのタレントの新曲が聞けなくなっちゃう・・・

どうしても どうしても 自分が死ぬ事よりも大切な事に思えたのだ。

単純?でもそんなものなのだ。


もう1つは 「10年後の鏡」

もし 10年後がうつる鏡があるとしたら 今の私は10年後の私に何を言うのだろう、何を聞くのだろう。

もし 10年後の私が今の私を見たら 10年後の私は今の私に何を言うのだろう、何を聞くのだろう。

そんなことをひたすらに考えた。


そして 10年経った私を想像し いつまでくよくよしても仕方ない。そう思ったのだ。


10年後の私が 笑顔でいるように。

10年後の鏡に 私がちゃんと映るように。


今を真剣に悩む小中学生に 命の大切さを殊更に説いても通用しないだろう

しかし その小中学生時代を 過去に歩んできた私が言いたいのは

熱病に負けるな、ということなのだ。